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1.阿瀬知川(あせちがわ)の取水口〔久保田2丁目〕
 阿瀬知川に流れるこの取水口の水は三滝川にある「ゴム堰」前の表面水と、川底より下に埋められた集中暗渠の2経路から取り入れられるようになっている。
 これらの経路には弁が付けられており、この弁を操作することによって水量が変えられる。また、通常は集中暗渠から取水している。



2.上里(あがり)遺跡〔久保田2丁目〕
三滝川の右岸、久保田2丁目にある西浦保育園から西南に広がる遺跡で、市内では伊勢湾に最も近い遺跡の一つである。まだ発掘調査が行なわれていないが、地元郷土史家の収集した遺物により、弥生時代以降の遺跡と判断できる。



3.蓮光寺(れんこうじ)〔久保田2丁目〕
(浄土真宗本願寺派 寶池山蓮光寺)
 寛永年中、正順が建立し、寛永17年(1640)本願寺住職良如法主より本尊寺号を賜った。安政の大地震をはじめ多くの天災により、甚大な被害を受けたようで、詳しいことは判らない。
 現在の建物は明治43年(1910)に再建されたもの。(『常磐小学校史 常磐・百年のあゆみ』による)



4.窪田(くぼた)神社〔久保田2丁目〕
〔祭神 健速須佐之命(タケハヤスサノオノミコト)〕
大正15年(1926)に八阪神社(赤堀)から分祠した。



5.吉祥寺(きっしょうじ)遺跡〔久保田1丁目〕
 久保田1丁目中川原通り沿いに広がる遺跡。この付近で採集された遺物から古墳〜近世時代の遺跡と確認される。元々水田地帯であったが、近年都市化が進み、現在ほとんど宅地となっている。



6.小判田(こばんでん)遺跡〔芝田2丁目〕
現在市立四日市病院があるところを中心とした地域に広がる遺跡。昭和51年(1976)同病院の建設に先立って発掘調査が行なわれ、この調査によって発見された集落跡や出土遺物から、古墳〜南北朝時代の遺跡と考えられる。この調査では大量の湧水で困難を極めたことが報告されている。このあたりは三滝川の氾濫原であるため、地下には豊富な伏流水が流れているものと思われる。



7.宮の前(みやのまえ)遺跡〔芝田1丁目〕
 十一社大神の東方に広がる遺跡。平成2年(1990)個人住宅の建設に伴う試掘調査が行なわれ、古墳〜奈良時代の土師器、須恵器、埴輪などが出土した。埴輪片は隣接している芝田遺跡からも出土しており、この付近に古墳が存在していたことをうかがわせている。



8.宮の西(みやのにし)遺跡〔伊倉1丁目〕
近鉄中川原駅の北方、十一社大神の西方に広がる遺跡。昭和63年(1988)マンション建設に先立ち発掘調査が行なわれ、古墳時代から中世に掛けての多数の遺物が出土した。「柴田郷長‥」と読める木簡や石帯・緑釉陶器の出土から推測して、古代柴田郷の中心的集落であったとも考えられる。



9.十一社大神(じゅういっしゃおおかみ)遺跡〔伊倉1丁目〕
〔祭神 天神地祇(アマツカミクニツカミ)〕
大正15年(1926)に八阪神社(赤堀)から分祠された。



10.頌徳(しょうとく)碑〔芝田1丁目〕
 昭和7年(1932)、当時の川喜田米太郎村長が、たつ女頒徳碑建設委員長となり、人々の寄付と小学校児童の寄付により建立された。
 江戸時代後期、芝田に住んでいた「たつ女」は、大変貧しい暮らしの中、両眼失明の兄を40年間にわたって介抱しつづけたとして、領主から賞せられた。このことが、明治の高等小学校修身の本に載せられている。
      (『常磐小学校史 常磐・百年のあゆみ』による)



11.四日市市立図書館〔久保田1丁目〕
 博物館、文化会館と並んで四日市市の文化の向上の拠点になっている。蔵書の数は380,000冊を数え、一般図書のほかに、地域資料室では四日市を中心とした郷土資料が閲覧できる。郷土作家コーナーや四日市出身の文豪丹羽文雄記念室もあり、郷土出身作家の作品がまとめられている。また児童室もあり、子どもと一緒に読書を楽しむことができる。



12.芝田遺跡〔芝田1丁目〕
 芝田町旧集落の西方に広がる遺跡で、主に水田であるが、近年宅地化が進んでいる。昭和52年(1977)に開発に伴う試掘調査が3回にわたって行なわれ、そのとき出土した遺物から弥生〜鎌倉時代の遺跡と考えられる。



13.正覚寺(しょうかくじ)〔中川原1丁目〕
(浄土真宗本願寺派 成等山正覚寺)
 永正11年(1514)正誓が創立したと云われる。嘉永7年(1854)、安政の大地震で本堂が倒壊した。文久3年(1863)、12代正通により本堂上棟が行われた。棟札に大工棟梁大矢知遠江守源重成末孫とあり、この時に再建されたことを知ることが出来る。
   (『常磐小学校史 常磐・百年のあゆみ』による)



14.阿弥陀堂(あみだどう)〔中川原1丁目〕
 勢陽五鈴遺響によれば、吉祥寺廃寺として往年大利であったが永禄年間(1558〜1570)、赤堀城合戦(工藤長野勢と赤堀・浜田城田原両家の戦い)のとき冠火(こうか)に焼かれた。その廃嘘から大仏一体が遺ったとある。他にも色々な説があるが、何れの寺に関わるものか定かではない。
   (『常磐小学校史 常磐・百年のあゆみ』による)



15.赤堀遺跡〔城東町・城西町〕
 常磐小学校東方に広がる遺跡で、赤堀城跡の推定域内にあたっている。開発に先立つ発掘調査で弥生〜平安時代の遺物が出土している。赤堀と地名が改称される以前の地名である栗原は、保元年間の寛(ゆたけ)御厨検田馬上帳(ばじょうちょう)に見える条里地名「五条十栗原里」に由来する地名であり、赤堀城築城以前に既に集落が形成され始めていたことが推察される。



16.赤堀城跡〔城東町・城西町〕
 市道堀木日永線の拡幅工事などに伴い、昭和59年(1984)から平成16年(2004)にかけて5回の発掘調査が行なわれた。その結果、土塁や堀の発掘から、市道堀木日永線と市道千歳町小生線(松本街道)の交差点付近が東南角で、そこから西北に向かって城跡が広がっていたものと推測される。赤堀城主は上野国(こうづけのくに)、今の群馬県を本貫地とする赤堀氏と考えられる。文和2年(1353)赤堀勝謂が足利尊氏から鈴鹿市の野辺御厨地頭職等を安堵されており、この頃既に赤堀氏の一族が伊勢の地に下向していたものと思われる。それから約200年、織田信長に滅ぼされるまで赤堀氏の居城として維持されてきたものと思われる。



17.八阪神社〔赤堀2丁目〕
 八阪神社は「健速須佐之命(タケハヤスサノオノミコト)・五男三女神」の二神を祭り、当社は、元、牛頭(ゴズ)天王八王子社と称したが明治2年(1869)に八阪神社と改まった。
 大正15年(1926)に窪田神社、十一社大神、八幡神社、神明松乃神社、松井神社が分詞。昭和2年(1927)には井具羅神社が分祠した。
 八阪神社の造営は、昔から伊勢神宮から古材を拝領し、豪壮な社務所をもっていたが、戦災で焼失した。
 昭和28年(1953)の式年遷宮に神宮の外宮の中重鳥居等の拝領を受け、又氏子の寄付もあり現在の∧阪神社となった。
                 (『八阪神社資料』による)



18.称行(しょうぎょう)院〔赤堀2丁目〕
 伝聞によると、元天台宗のところ、永正年間(1504〜1520)白山大和尚により鎮西派浄土宗になり、その後、永正から寛永年間まで約140年余り無住であったと云われている。御堂正面の寺額には来迎山長福寺正行院とある。
 当初天台宗のころ長福寺と称し、浄土宗になって称行院(正行院)と称せられ、今日に至っているようである。
   (『常磐小学校史 常磐・百年のあゆみ』による)



19.誓元寺(せいげんじ)〔赤堀2丁目〕
 開基は中興道祐師〔永正8年(1511)没〕の創建と伝えられる。 以前は、天台宗と伝えられるが、応仁、文明年間(1470頃)、真宗高田派本山が第十世真慧上人の時代に下野国より現在の津市一身田の地に移って後、その末寺になったと伝えられる。
 本堂は嘉永7年(1854)の地震で倒壊、慶応元年(1865)に再建されたが、昭和20年(1945)の空襲で焼失した。昭和40年(1965)に現在の本堂が建てられた。 本堂南にある光雲殿と名付けられている納骨堂は、終戦の暗まで常磐小学校にあった奉安殿を、昭和21年(1946)に移築したものである。
本尊の木造阿弥陀仏立像と親鷲聖人木造坐像は鎌倉時代の名工の作と推定されている。山門、鐘楼は明治45年(1912)に建立されたが戦災を免れた。梵鐘は、以前のものは戦時中に供出され、昭和40年(1965)に改鋳。
            (『誓元寺門前の案内板』による)



20.誓覚(せいかく)寺〔赤堀3丁目〕
 元は栗原山九品院といい、天台宗のお寺だったと伝えられる。往時は七堂伽藍の寺であったと云われている。
 文亀4年(1504)道全権小僧都という人が中興として出られ、それより真宗高田派栗原山誓覚寺と改められた。九品院当時のものと伝えられる本尊は、鎌倉時代(約千年前)に造られ、他の阿弥陀さまと反対の左手を上げておられる珍しい尊いもので、仏師が千体の中一体くらい造られたともいう。
            (『誓覚寺門前の案内板』による)



21.北中寺(きたなかでら)遺跡 〔石塚町〕
石塚町の鹿化川北に営まれた遺跡で、発掘調査は3度行なわれた。その結果古墳〜室町時代の遺物を多数出土した。注目される遺物として、台付三連壷、円筒埴輪、ガラス玉がある。これらと遺跡の南側にある「石塚」という字名と考え合わせると、付近に古墳が存在した可能性がある。ほかに墨書土器や木簡が出土しており、公的な性格を持った施設の存在を窺わせる。



22.ふるさとの川、三滝川
 三滝川は鈴鹿山脈の御在所岳に源を発し、中流部で金渓(かんたに)川、矢合川、などを合流し、伊勢湾へ注ぐ流路延長22.52kmの2級河川で、常磐地区はこの川の恩恵を大きく受けている。
 この川は県が管理しているが、治水対策はもとより市民に親しまれる水辺空間の創出に向けた川づくりが行われている。常磐地区の川辺には人と自然のふれあいゾーンが計画されており、自然を可能な限り保全し、あわせて積極的な自然環境を創出していくことになつている。      (『三滝川ふるさとの整備事業』による)



23.井具羅(いぐら)神社〔伊倉2丁目〕
〔祭神「健速須佐之命(タケハヤスサノオノミコト)〕
昭和2年(1927)に八阪神社から分祠した。



24.浄裕(じょうゆう)遺跡
近鉄中川原駅の北西にあり、東洋紡績の東方にあたる。昭和35年(1960)北伊勢工業用水の管埋設工事の際、弥生時代の遺物が出土しており、また昭和57年(1982)この区域にある会社の社屋建設に鞋立ち行なわれた発掘調査でも、弥生〜鎌倉時代の遺物が出土している。



25.八幡神社〔大井手3丁目〕
〔祭神 品陀和気命(ホンダワケノミコト)〕
 大井手には昔は山之神と須賀神社が有り(須賀神社は松井須賀神社となった)
明治41年(1908)八阪神社に合祀された。大正15年(1926)八阪神社より分祠。現在地に社殿が建立された。
              (『大井手自治会資料』による)



26.浄蓮(じょうれん)寺〔大井手3丁目〕
(浄土真宗本願寺派 白水山浄蓮寺)
 寛永18年(1641)裕善師により開創され、正徳6年(1716)第6代空山師のとき旧本堂が建立された。その後、明治12年(1879)第11代無涯師の時代に、164年ぶりに本堂の建替がなされている。 無涯師は明治5年(1872)、明治天皇の御前講義に出講し、当時の最恵国主義一色の世相を憂えて、廃仏棄釈の風潮が改善されるよう、進言した。
 その後、明治6年(1873)西本願寺から勧学、明治15年(1882)政府から権少教正位が賦与されている。また、境内に学寮を設け、遠近各地から参集した僧侶等の仏教研鑽指導に当っていた。
       (『浄蓮寺資料』による)



27.前山(まえやま)遺跡〔大井手3丁目〕
 尾平町、大井手3丁目西部、松本3丁目北部の広い範囲に広がる遺跡で、主に水田地帯である。遺跡のやや南部を近鉄湯ノ山線が東西に貫通する。出土遺物から弥生〜室町時代の遺跡と考えられる。採集遺物で重要なものに石帯があり、このことから平安時代に地方官人として衣冠束帯で正装した人物がいたことが想像される。



28.平戸山(ひらこやま)遺跡〔西松本町・青葉町〕
 市道環状1号線と市道千歳町小生線(松本街道)が交差するあたりを中心に広がる遺跡で、川島から松本へと続く丘陵の北面、標高20m前後のところにある。遺跡はこれら市道の建設や宅地開発によりほとんど壊滅状態であるが、一部で発掘調査が行なわれたが、そのときの出土遺物から弥生〜奈良時代の遺跡と考えられる。



29.松本神社〔松本5丁目〕
 神明松乃神社〔祭神 天照大神・豊受毘売之命(卜ヨウケヒメノミコト)〕
松井須賀神社〔祭神 健速須佐之命(タケハヤスサノオノミコト)〕が一つになり松本神社となった。
 大正15年(1926)に八阪神社(赤堀)から分祠された。



30.松本道場〔松本5丁目〕
 松本に寺はなく、文化元年(1804)真宗高田派の南道場と北道場が建てられたが、江戸末期に南道場は焼失し一つになって松本道場となった。
 年中法要には興正寺(日永)と顕正寺(西日野)の両方から出向され、行事が営まれている。
   (『常磐小学校史 常磐・百年のあゆみ』による)



31.松本城跡〔松本5丁目〕
 城跡は川島から松本に延びる川島丘陵の東端部、標高約44mの先端部に推定されている。この山の中腹には松本神社が鎮座している。この城は元久元年(1204)に起こった、平家の残党が鎌倉幕府に反旗を翻して戦った三日平氏の乱のとき、松本氏がここを拠点にして戦ったと推測されている。



32.松本山の見晴らし〔松本5丁目〕
 常磐地区に残された数少ない、まとまって緑がある場所で、ここからは、北は三滝川、南は鹿化川に挟まれた常磐地区の東部、そして遠くは臨海部も望むことができ住民の憩える公園となっている。かつては、いくつかの小学校や幼稚園の遠足の目的地になっていた。いまは、松本の住民の方々が雑草刈りを行うなどして、きれいに管理されている。



33.吉田山(学校ビオトープ)
 常磐西小学校では、平成11年(1999)度から学校の敷地内にある吉田山(5,772u)を整備し、子どもたちの学習の場として、また、休み時間や放課後の遊び場として、さらに、地域の人々の憩いの場として活用している。
 この活動は、PTA「常磐西の未来を語る会」が中心となって、地域、家庭、学校が連携して進めている。また、この活動の趣旨は「動植物の生命の営みと生命の大切さを、手づくりの活動を通じて子どもたちに原体験させること」である。常磐中学校でもPTAを中心に平成13年(2001)度から取り組んでいる。



34.上布田(じょうふでん)遺跡〔松本〕
遺跡は松本地内にあり、鹿化川の左岸、松本溜池との間付近に広がる水田で、地元郷土史家の採集した遺物や、その後の現地調査によって採集された遺物から、古墳〜鎌倉時代の遺跡と推定される。



その他の名所

ケヤキ並木の西浦通リ


イチョウ並木の美しい堀木〜日永線

芝田の常夜燈

芝田の常夜燈は十一社大神にお参りする参道の道標である。文政年間(1818〜1828)のものと思われる。(地区広報ときわNo.32による)


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