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赤堀城跡(堀木日永線南から北方向を望む)
赤堀城跡(堀木日永線北から南方向を望む)
第9回
(赤堀在住の青砥様の資料より編集したものです)
赤堀城跡追録
 赤堀城跡は、四日市市街地に当たっており、都市化のため遺構をとどめていない。
旧「三重郡赤堀村字城西、同城東、同新三郎縄」の地籍図に70m×70mの主郭の土塁や堀跡が認められる。周辺にも土塁や堀跡と思われる地割も認められ、(新三郎縄」の名称も考え合わせれば、家臣団の屋敷を周囲に配する、かなり大きな城郭であったことが想定される。
 この地に生まれ育った古老の話では、城跡に3m位の土盛りがあり、その上に秋葉権現の小さな社があり、昭和の初期に同地の南側に東西(松本から東海道まで)に通じる「松本街道」を幅5.4mに拡げるために、城跡の土盛りを崩し利用したと聞いた。この道は3間(げん)(1間は1.8m)道路と言われていた。(何故か城に通じるこの道や、近鉄赤堀駅前の道と赤堀郵便局前の道も東海道の東への道は、直線ではなく食い違って(他の城下町でも防衛上そのようになっている)今でも信号機が設置できない。
 前記の土盛りの上にお祀りされていた社は地元の製薬会社北側落合川沿いの築山の上に移転され、その後は不明のようです。
 その土盛りを平地にされた跡地に製薬会社が木造ながら当時としては巨大な建物を建築し、社員寮とされていたとも聞いている。その後、同建物はある製油会社社長宅に譲られ、定かな記憶はないが昭和40年代に同建物は解体され松が1本残され、雑草地となっていた。その後地区民の方々の御尽力により子供広場となった。平成15(2003年)年秋、同地が道路拡幅されるに伴い発掘調査され五輪塔2基などが発掘された。

赤堀城跡地籍図(1:2500)三重郡赤堀村字城西、同城東、同新三郎縄、地籍図)

 城郭地図と都市計画図を対比すると、赤堀の集落には都市化の地割が及ばず、旧来の地割を今に伝えている。陸軍陸地測量部の地図と「旧三重郡赤堀村字城西、同城東、同新三郎縄」の地籍図を重ねあわせると、水路、道路との関係から旧赤堀集落の微高地に城跡が推定できる。
 地籍図からは土塁と堀に囲まれた主郭が推定でき、主郭の東側及び北西側にも、付属する郭を推定できる。また城跡の北側には「新三郎縄」の小字名も残され、主郭の周辺に家臣団の屋敷を想定できる。この地籍図の北と南に記された小河川と、陸軍陸地測量部の地図の河川とほぼ一致し城跡はこの間に推定できる。
 赤堀城の北東800mには、浜田城が築かれていた。赤堀、浜田城周辺には「九の城」(元々は旧の城だったようです)「堀の田」「城北町」等の小字名が残される残されるほか、旧赤堀集落内には「大門、市場」の小字名も残っている。また赤堀城の北西700mの中川原には「西条」「東条」の小字名があり、この辺にも城跡が存在した可能性がある。(他の資料では、中川原にも城があり城跡は正覚寺との記録がありました)
 平成15年以前には、昭和59年(1984年)、平成元年(1989年)、同3年(1991年)、同7年(1995年)の4回の発掘調査が行われている。
 第1次調査は、城跡の東に当たる地区で実施された。調査の結果、礎石建物2棟、土坑、溝等が確認されたが、その性格については不明な点が多い。第2次調査は、第1次調査区の東側に隣接する、杭列を伴う溝、土坑が確認された。土坑の中には、中世墓と考えられるものもある。第3次調査では、遺跡範囲の南東側での調査であったが、堀、土塁が確認された。第4次調査では、埴輪や緑釉陶器が出土しており、低地における古墳や古代の様相を探る上で貴重な資料となっている。これらの調査で出土した遺物は膨大な量にのぼる。
次回第10回天正大地震

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