ページの先頭です。

本文へ

常磐地区ホームページ

定期刊行物 | 各種団体 | 市民センター | 地区の行事 | 地区活動紹介 | 地区の紹介 | サークル活動 | リンク


常磐地区ホームページトップ常磐地区の紹介連載 赤堀氏三つ頭左巴 > 第6回

ここからが本文です





        




 赤堀氏の紋(三つ頭左)    掃部殿塚(天理教境内にて)
第6回
四日市の近郊の合戦(前回の続き
 関.赤堀勢の茂福城攻撃(阿倉川や赤堀でも激戦)
  永禄2年(1559年)関城主安芸守盛信は白子左衛門亮に5百騎与え、赤堀で勢揃いして茂福城へ攻め寄せることとなり、羽津城主田原国虎は家臣森 長松、岩田縫右衛門らを集めて「我は関の与力として赤堀と同家であり、このたび白子左衛門亮、鹿伏兎(かぶと)豊前守の諸軍が北伊勢へ入るならば神戸与力の小城北畠幕下の者までも皆落城するであろう。我一城も攻めず白子、鹿伏兎の後陣にいるのも口惜しい。その上安芸守も言い甲斐なく思うだろう。」 「白子、鹿伏兎の軍兵が近づくうちに茂福城を攻め落とそう」と言い、終夜兵を集めて未明に茂福城へ攻め寄せた。

 神戸蔵人友盛の幕下である茂福城主朝倉盈豊は、南部治部少輔と打ち合わせ、萱生城、柿城に加勢を頼み、大勢で篭城していたので羽津城主国虎も急に攻められず堀を隔てて互いに鉄砲を射ち合った。白子左衛門亮、鹿伏兎豊前守は赤堀城でこのことを聞き、楠、赤堀、中川原、堀木の勢を合わせ千5百騎で攻め寄せた。
 北伊勢軍記によると「南部治部少輔は自ら3百騎を引きつれ、北村の在家から天王林の後ろを通り、いかるが(地名)の前から斜めに白子勢の後ろへ廻り、ときの声をあげながら討ってかかった。白子勢は進みもならず、とって返して戦おうにも両方は深田であり、先の広地に出て戦えと言っているうちに崩れたち、幣ヵ野まで引いた。神戸蔵人友盛は2千余騎の軍兵を兵船80艘に乗せて長太、若松の浦から、茂福、富田浦に着け、進み寄り、城中もこの援軍に力を得て討って出れば、赤堀国虎も羽津城へ引き、白子、鹿伏兎勢も赤堀まで引いた」とある。これを「茂福合戦」と言う。
 永禄3年(1560年)5月織田信長は桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った。前述のように北伊勢の土豪らが争っている頃、尾張、美濃、近江などの地でも戦国大名が互いに争い中でも織田信長が尾張、美濃を平定し京都へ登り天下に号令する望みろ持ち伊勢の平定を策した。
 
織田信長の伊勢侵攻
 永禄10年(1567年)織田信長の第1回の伊勢侵攻はこの年に始まった。当時蟹江城にあった織田信長の家臣滝川一益にその先兵を命じた。滝川一益は先ず美濃国との境の多度あたりに兵を出し、員弁、桑名、朝明、三重の諸郡を占領しようとしたが、滝川一益の配下の明智光秀らの調停で前記4郡の多くの城主は戦わずに滝川一益に降伏し平定した。この時滝川一益は、織田信長に出陣を要請した。

 永禄10年8月(1567年)滝川一益の要請に答えて信長は美濃、尾張の兵3万を率いて岐阜から桑名へ入って諸所に放火した。この頃滝川一益に従った北伊勢の諸家は総て信長の指揮下に入り、また先導とし、まだ降伏していなかった萱生、南部、富田らと楠城の楠貞孝も織田信長方に降伏した。
 織田信長勢はさらに南の鈴鹿神戸家の家臣山路弾正少弼(ひつ)の守る高岡城へ迫ったが、同城は要害にうえ城兵も良く戦い、容易に落とせなかった。そのとき、西美濃三人衆と言われる氏家卜全、稲葉一徹、安藤伊賀守が、甲斐の武田信玄に内通して、織田信長不在の岐阜を襲うとの情報があり、織田信長は押さえとして滝川一益を残し、急いで岐阜に帰った。滝川一益もまもなく軍を収め第1回の伊勢侵攻は終わった。

訂正 前5回で桶狭間の戦いが天文12年とありましたが永禄3年の誤りですお詫びして訂正します。
第7回へ続く

前ページに戻る | ページの先頭に戻る

サイトマップ | このサイトの考え方

Copyright © 2006 常磐地区市民センター. All Rights Reserved.