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常磐地区ホームページトップ常磐地区の紹介連載 赤堀氏三つ頭左巴 > 第5回

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(青砥様の資料に基づいて編集しました)
四日市の由来
 浜田城のを継いだ赤堀家の三男忠秀は、過去に羽津ー末永ー芝田ー(現在の城西、当時は赤堀)ー日永と通じていた東海道を浜田城の東に移しまた東西にも道を造りその道沿い民家も増え、三滝川の南辺りの辻で 毎月4の付くく日に市場を開き、人々に利便を与えたことである。
 弘治、永禄(1555〜1570)の頃になると市場も整備されて4日、14日、24日と定期市場となり、これが四日市の地名の起源となった。

四日市近郊の合戦
 
弘治1年(1555)近江国観音寺城主の佐々木義賢は、同国(現永源寺町)小倉三河守み3千人あまりの兵で菰野の千種忠房を攻めさせたが、勝負がつかずに義賢第一の家臣後藤基弟を養子とすることで和睦し千種三郎左衛門と称した(その頃、川中島で、武田信玄、上杉謙信が戦う)
 
弘治3年(1557)小倉三河守は(現在の朝日町の)柿城の沼木三河入道宗喜を攻め謀略で同城を奪ったが、それを援けるため1千余騎で柿城に赴いた神戸下総守は隙を突かれ神戸の城を、近くの岸岡城主の佐藤中務丞に奪われ佐藤は小倉三河守を神戸城に入れた。
 ところが佐藤の家臣の古市与助は長野の工藤家と共に自分の城主が奪った神戸城を攻めて小倉三河守を近江へ退散させたまさに下克上の城の盗み合いの世であった。

 
永禄年間この頃になると千種城主の忠治は、萱生城主春日部への攻撃を家臣の萩沢備前守に命じたので、萩沢は5百騎を率いて平津河原で陣地を作った。
 一方春日部は城の周辺に柵を作り、堀を深くし、朝明川の水を引き入れて防戦に努め、東方では広永城主横瀬勝五郎、下野(しもの)山城主海老名藤五郎保々城主朝倉備前守らが必死の応戦を続けたため、萱生城は容易に落ちず、その頃、北畠具教が北伊勢侵攻の準備に取り掛かったので千種忠治は春日部俊家と和議を成立させ俊家は忠治の娘を迎えたのであった。

塩浜合戦
 永禄1年(1558)長野の工藤家は、永年北畠家との戦いを繰り返し、この年工藤家は北畠具教の次男具藤を養子(長野次郎)として迎えたことから和睦し、北畠、長野は共に北伊勢攻略を目指した。
 永禄2年(1559)北伊勢軍記によると、この年長野祐治は関一党との抗争の一つとして、先ず浜田城を攻略するため、長野、雲林院(うじい)、草生(くさわ)三家の兵5千余人を阿漕浦から兵船に乗せ塩浜から上陸させようとした。
 浜田城主3代目の田原元綱の嫡子重綱は、赤堀城主4代目の景治からの援軍堀木常定らと共に塩浜浦の松林に兵を待ち伏せさせた。
 9月16日未明、長野勢は伏兵があるとも知らず上陸するところを浜田と堀木が一手になって攻めかかると長野勢はなす術もなく追い散らされた。しかし長野勢の三宅権六ら戦いなれた者らが
  「敵は小勢なるぞ、引き返して四面を包み一人残らず討ち取れ」
と指図したので、散乱した兵は再び戻り、4時間にわたる激戦となった。
 この戦いで、浜田方のうち、関勢の神戸蔵人の叔父神戸左衛門尉、堀木常定はじめ強兵50余人を失い、長野勢は三宅権六、乙部丙内ら百余人が討たれ、同勢は夜に乗じて船に乗り長野へ帰陣した。これを「塩浜合戦」とよんでいる。

 伊勢軍記によると、このとき、南方の波瀬御所、与力矢川下野守、阿曽弾正忠以下1千人が赤堀城に攻め寄せたが、赤堀の守りの固さに攻め落とすことが出来ずに、引き上げた。
そのとき、(赤堀?)城中から落書して
  赤堀の 堀の深さを 知らずして 浅みをみせる 波瀬の御所かな
又あるとき、工藤家が国司の命により赤堀城を攻めたときも
  赤堀の 庵の内の 三文字に 長野の首を割菱にせん
と落書されたとある。
 赤堀の家紋は三家とも三頭左巴(みつがしらひだりともえ)であるが、幟標は庵内八十万である。田原将軍は80万の大将だったので、この替紋を使用した。なお長野工藤の幕紋は割菱だった。


  
長野工藤家の幕紋
旗印(はたじるし)戦場で、目印として旗につける紋所文字、または種々のかたち。広辞苑より





参考 織田信長が桶狭間で今川義元を討ち取ったのは天文21年5月(1560年)

第6回へ続く

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