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田原(俵)籐太秀郷愛用の兜と説明文(鵜の森神社所蔵)重要文化財
第4回
(赤堀在住の青砥様の資料により編集したものです)
伊勢における赤堀氏
伊勢で室町時代から戦国の世に活躍する豪族は、南伊勢5郡は国司北畠氏、安濃、河芸2郡を領する工藤氏(源頼朝の家臣で冨田の荘の地頭だった工藤祐経の末裔)、鈴鹿、河曲(かわの)の2群には平氏の系統だった関氏があり、これが伊勢三家と言われていた。
さらに三重郡には、千種氏、関一族で河芸郡神戸城主の神戸氏、朝明郡萱生(かよう)城主の春日部氏を 加 えてえて6人衆と言われ、また三重郡、朝明郡では関氏幕下の赤堀氏が大きな勢力となった。
元中9年(1392年)田原秀郷の5男千常の孫忠綱の子である佐野小次郎の八世の孫佐野景綱が信濃の国を経て伊勢へ移り国司に仕えて三重郡栗原に赤堀城を築く。
なお景綱は赤堀城主と羽津城主の記録がある。
田原孫太郎景信は上野国赤堀荘から信濃の国ろ経て、三重郡栗原に領分を受けて移住し同地名を赤堀と改称した。
景綱の築いた赤堀城主となるが、その後、応永35年(1428年)総家同城主は次男の景宗(秀宗)に継がせた。
田原景信(南朝方)は、肥前守と称し、赤堀家は国司北畠に属し、次男景宗(秀宗)に継がせて七代居城(永禄年間1558〜1570年頃)関氏の神戸具盛の次男具氏を養子に迎え、赤堀治部少輔具氏として継がせた。
景信は長男盛宗を羽津城に、三男忠秀を浜田城に封じ、赤堀三家の基礎を築いた。
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現市内に点在していた土豪は下記の通りです。
小豪族の点在している様が見て取れます。 |
冨田城
蒔田城
萱生城
広永城
中野城
保々西城
阿倉川城
浜田城
中河原城
平尾城 出城山城
小古曾城
山田城
城の山城 |
東富田字花の木
西富田町蒔田
萱生町(現暁学園)字城山
広永町字内の坪
中野町字北条
西村町字城下
東阿倉川字城の腰
浜田町堀の田
中川原字西条
平尾町新貝
知積町一生吹山字御城新田小古曾町
山田町字吉ヵ原
水沢町東条 |
茂福城
大矢知城
伊坂城
下野山城
市場城 羽津城
西坂部城 赤堀城
曾井城
佐倉城 川尻城
采女城
小山田城 楠城 |
茂福字里の内
大矢知町字城ノ山
伊坂町字古屋敷
山城町字源治山
市場町字的場
羽津町字城山
西坂部町城の谷
赤堀字城西、城東
曾井町字東垣内
桜町字城丸
川尻町字古城
采女町字北山
楠町本郷字風呂 |
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訂正
上野国赤堀は群馬県佐波郡赤堀今井でしたが合併により平成17年1月1日より群馬県伊勢崎市赤堀今井となりました。お詫びして訂正いたします。
参考
田原氏は一説には下野国赤堀(栃木県)の出とありますが栃木県河内郡上三川町教育委員会に青砥様が問い合わせたところ、俵、田原、赤堀の姓を見出すことができなかったと回答がありました。それでここでは上野国の出とさせていただきます。 |
第5回 戦乱の北伊勢の合戦
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