赤堀家の紋(三つ頭左巴) | ||
(赤堀在住の青砥様の資料より編集したものです) | ||
第11回 | ||
赤堀城の年表 | ||
年 号 | 西 暦 | |
治承4年 | 1180年 | 田原(俵)藤太秀郷の五男千常十世の孫足利又太郎忠綱史上名高い宇治川を馬筏を組んで渡河、平家に反旗を翻した源頼政を破る。その功で上野国(群馬県)赤堀荘を賜る。そして忠綱の弟泰綱の玄孫孫太郎教綱が赤堀氏を称したと伝えられる。 |
弘治3年 | 1333年 | 鎌倉幕府倒れる。 |
建武1年 | 1334年 | 建武中興始まる。 |
建武2年 | 1335年 | 中先代の乱起こる。足利尊氏乱を平定。後醍醐天皇の政府に対し挙兵し、南北朝始まる。 |
元弘3年 | 1338年 | 田原一族は国司北畠顕信赤堀(当時は栗原)と羽津荘3万7千2百貫宛て行われる。足利尊氏室町に幕府を開く。 |
正平8年 | 1353年 | 赤堀三朗左衛門入道勝謂が上野国を本貫地とするが、伊勢の国野辺御厨地頭職に派遣する旨の袖半下し文を、足利尊氏が出している。 |
明徳3年 | 1392年 | 南北朝和睦公武統一。北伊勢は48家が割拠。 |
元中9年 | 1392年 | 佐野景綱(田原秀郷を祖とする)が信濃の国を経て伊勢に移り国司に仕えて三重郡栗原に赤堀城を築く。田原孫太郎景信は上野国赤堀荘から信濃国を経て三重郡栗原に領分を受けて移住し同地名を赤堀と改称。 |
応永35年 | 1428年 | 赤堀城は次男の景宗に継がせた。景宗は長男を羽津城に、三男忠秀を浜田城に封じ、赤堀本家は関氏の神戸具盛の次男具氏を養子とし、赤堀治部少輔具氏として継がせた。 |
弘治〜永禄年間 | 1555年〜1570年 | 羽津-末永-芝田−日永の東海道を浜田城の東に移し四の付く日に市場を開いた。これが四日市の起源。 |
弘治1年 | 1555年 | 佐々木義賢が菰野の千種忠房を攻める。 |
弘治3年 | 1557年 | 小倉三河守柿城を奪う。それを助けるために神戸下総守が柿に赴いた隙を突かれ神戸城を奪われる。 |
永禄1年 | 1558年 | 長野の工藤家は北畠具教の次男具藤を養子に迎えて和睦。 |
永禄1年 | 1559年 | 長野勢が塩浜に上陸、浜田と堀木勢が迎え撃ち撃退。塩浜合戦。 |
永禄2年 | 1559年 | 関城主安芸守、神戸蔵人友盛方の茂福城を攻める。茂福合戦。 |
永禄3年 | 1560年 | 織田信長、今川義元を討ち取る。桶狭間の戦い。 |
永禄10年 | 1567年 | 織田信長、滝川一益を尖兵として北伊勢に侵攻。員弁、桑名、朝明、三重の4郡戦わず降伏。 |
永禄11年 | 1568年 | 長野城主工藤藤定、赤堀城を攻め降伏させる。赤堀城は179年で滅亡する。 織田信長第2次北伊勢侵攻。 足利義昭第15代将軍に任官。 |
永禄12年 | 1569年 | 織田信長、伊勢国司北畠具教、具房父子を攻め信長の次男信雄を養子としていれ和睦。その後信雄は天正4年北畠を滅ぼした。 |
元亀1年 | 1571年 | 織田信長と徳川家康の連合軍と浅井長政と朝倉勢が江州姉川で激突、織田、徳川連合軍の大勝利。 滝川一益が茂福城主朝倉掃部介盈豊を桑名矢田城でだまし討ち。家臣が首を取り返し保々の大樹治の前に埋葬。今も首塚として残っています。 5月織田信長, 長島の願証寺を5万の軍勢で責めたが敗退。 織田信長、比叡山焼き討ち。15代将軍追方、足利幕府滅亡。朝倉義景一乗寺にて自害。朝倉滅亡。 |
元亀2年 | 1572年 | 羽津城主田原右京亮近宗、茂福城にて滝川一益の家臣山口四郎右衛門に毒殺され、同時に羽津城も攻められ落城。 |
天正1年 | 1573年 | 織田信長、長島願証寺を6万の大軍で襲撃。 |
天正2年 | 1574年 | 再度織田信長長島願証寺を10万の大軍で攻略した。このとき北伊勢の寺院が多くが焼き討ちされた。 |
天正3年 | 1575年 | 6月滝川一益が浜田城、赤堀城を攻略。中川掃部助奮戦討ち死に。天理教四日市分教会に祭られています。ここに赤堀城、浜田城105年で滅亡。 |
天正13年 | 1586年 | 岐阜県、富山県、滋賀県、名古屋市、三重県、京都府などにM8クラスの大地震が起き、大きな被害が記録されている。 |
昭和59年〜平成15年にかけて5回の発掘調査 | 1984年〜2003年の計5回 | 数々の出土品がありました。次回にこれらの出土品をお見せしたいと思います。 |
第12回最終回 赤堀城の出土品 |
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