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赤堀氏三つ頭左巴(藤原氏秀郷流)第1回

  四日市の基を作った赤堀城の歴史

(赤堀在住の青砥様の資料により編集したものです。ご協力ありがとうございます。)

赤堀氏の由来(あかぼリ)

赤堀氏は田原(俵)藤太秀郷(近江の国の大ムカデ退治で知られる)の五男千常の十世孫足利又太郎忠綱は、治承4年(1180)史上名高い宇治川の先陣(源義経軍の佐々木高綱と梶原景季の先陣争いをして木曾義仲軍を破った戦い)で功を上げ上野国(群馬県)赤堀荘を賜った。これが秀郷の流れをくむ赤堀氏が赤堀と関係を持ったはじめである。そして忠綱の弟泰綱の玄孫孫太郎教綱が赤堀氏を称したと伝えられている。(四日市市史による)                       

姓氏家系辞典中に藤原姓足利系図に家綱−俊綱-忠綱(中務丞、田原又太郎、治承四年の合戦に宇治川の先陣、時に十七歳、三位入道頼政の軍を破る。云々)とあり、秀郷の流れをくむ下野発祥の豪族にして(中略)忠綱(足利又太郎云々)とあり、同人の元祖は下野国安蘇郡佐野庄出身で、その後軍功により足利家から、上野国赤堀庄を賜り忠綱の子、佐野小次郎の八世の孫佐野景綱が、後年伊勢の国司北畠家に仕え当地に赤堀城を築くことになる。このように二つの説がある。ちなみに上野国赤堀は現在の群馬県佐波郡赤堀町今井である。 以下次号

当時の心いき一所懸命 中世の武士が上から貰った領地を懸命に守りぬくこと。              田原(俵)藤太秀郷は藤原鎌足の7代目

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